Mag-log in黒曜城へ戻った時には夜が深くなっていた。城門の松明が風に煽られ、黒い石壁へ揺れる影を落としている。国境へ銀嶺狼群の兵が集まり始めたという報告はすでに届いており、廊下を行き交う兵士たちの足音には普段にはない張り詰めた速さがあった。その騒ぎの中で、ヴァルゼインは自分の傷について何も言わなかった。リュシエナが気づいたのは、城内へ入ってからだった。黒い上衣の脇腹へ、乾いた血とは異なる新しい赤が広がっている。「待ってください」ヴァルゼインが振り向く。「何だ」「傷が開いています」「この程度なら――」「その言葉は聞きません」思ったより強い声が出た。自分でも驚いた。周囲にいた兵士たちも一瞬こちらを見る。ヴァルゼインは何も言わず、暗い金の瞳だけを細めた。「……ネルーヴァのところへ行ってください」「今は負傷者を診ている」「だからといって、放っておいていい理由にはなりません」「誰が治療する」リュシエナは口を閉じた。薬草と簡単な処置ならできる。銀嶺でルナ候補として学ばされた知識の中には、戦傷の手当ても含まれていた。「私がします」言ってから、胸が強く鳴った。相手は黒狼王。それ以前に。運命の番だと言われた男。肌へ触れることになる。獣魂がどう反応するか分からない。けれど、傷を放置する方が嫌だった。「……簡単な処置ならできます」ヴァルゼインは数秒黙った後、頷いた。彼の私室へ入るのは初めてだった。思っていたより質素で、寝台と机、武器掛け、大きな暖炉しかない。豪華な装飾も、王の権威を誇示する品もなかった。ヴァルゼインが上衣を脱ぐ。布が擦れる音が妙に大きく聞こえた。その下の肌に、赤黒い傷が走っている。断崖へ身体を打ちつけた傷だけではない。脇腹へ、小さな銀の破片が深く刺さっていた。リュシエナの息が止まる。「これ……」「岩に仕込まれていたらしい」「分かっていたのですか」「戻る途中でな」「なぜ言わなかったのです」思わず問い詰めるような声になる。ヴァルゼインは椅子へ腰を下ろした。「歩けたからだ」「歩ければ傷ではないのですか」「そうは言っていない」「同じです」言いながら、胸の奥が妙に熱くなる。腹が立っていた。誰に対してなのかも分からない。傷を仕込んだ者。黙っていたヴァルゼイン。そして、誰かが自分を救う
焦げた黒霜花からは、翌朝になっても煤の匂いが消えなかった。リュシエナは集会所の卓上に置いた一本を指先で持ち上げ、焼けた茎の根元を確かめた。黒霜花は寒冷地の岩場に根を張り、雪の下で冬を越す強い植物である。花と葉は失われても、球根さえ残っていれば春を待たずに再び芽を伸ばす。それだけが救いだった。「地上だけなら、まだ間に合います」地図を広げながら告げると、カルネアが眉間へ深い皺を刻んだ。猟師の証言では、群生地は村から北東へ半日ほど登った断崖にある。夏でも足を滑らせれば命を落とす場所で、この吹雪の中では雪崩の危険まで加わる。「却下だ」即答だった。「天候が戻るまで待つ」「いつ戻りますか」「それが分かれば苦労しない」「三日かもしれません。十日かもしれません」「だからといって死にに行く理由にはならない」カルネアの声には苛立ちがあった。それが自分を心配してのものだと、今のリュシエナには少しだけ分かる。以前なら命令へ従っただろう。迷惑をかけたくない。反対されたくない。そう考えて口を閉ざした。だが卓上には、毒入りの薬が流れた経路を記した紙が置かれている。「他の村にも月毒が入っている可能性があります」リュシエナは黒霜花を置いた。「患者が出てからでは遅いのです。待っている間に患者が出れば、解毒薬がありません」「お前自身にもまだ毒が残っている」「だからこそ必要です」カルネアが何かを言い返そうとした時、入口の近くから低い声が落ちた。「行くつもりか」ヴァルゼインだった。リュシエナは彼を見る。暗い金色の瞳は、こちらを止めたいと明らかに告げていた。唇も僅かに動いた。残れ。おそらく、その言葉が出かかったのだと思う。けれどヴァルゼインは言わなかった。一度呼吸を整えるように鼻から息を吐き、問い直す。「行くのか」リュシエナは頷いた。「行きます」短い沈黙が落ちた。「なら、俺も行く」それ以上の説得はなかった。断崖へ向かったのは、ヴァルゼイン、リュシエナ、カルネア、そして山に慣れた兵士四人だった。吹雪は前日より幾分弱まっていたものの、山へ入れば風の音が途端に変わった。黒い針葉樹の枝が唸るように揺れ、雪が顔へ叩きつけられる。足元の雪は深い。一歩進むたび膝近くまで沈み、引き抜けば脚へ重い抵抗がかかる。ヴァルゼインは何度も歩調を
夜明け前、風が家々を揺さぶった。 黒森から押し寄せた吹雪は、眠りかけていたエルダ村を再び白い闇へ閉じ込めた。雨戸の隙間から細かな雪が吹き込み、集会所の床へ粉のように積もっている。屋根の上では重い雪がずり落ち、そのたびに梁が低く軋んだ。 見張りに出ていた兵が、扉を肩で押し開ける。「街道が埋まりました! 東の獣道も倒木で塞がれています」 外套へ張りついた雪が、暖炉の熱を受けて黒い水となって滴った。「王都へ出した伝令は」 カルネアが問う。「昨夜のうちに谷を抜けたはずです。ですが、救援隊が同じ道を戻れるかは…」 兵は言葉を濁し、背後の白い闇を振り返った。 風の咆哮が答えの代わりとなった。 リュシエナは長卓へ広げた紙の端を、燭台で押さえた。 無事だった穀物。王都から持参した保存食。村の各家庭が隠し持っていた豆と干し根菜。病人へ与えられる蜜と岩塩。 汚染された麦を除けば、村全体で食べられる量は予想より少なかった。「通常通り配れば、十日です」 集会所へ集まった村人たちの間に、冷たい沈黙が落ちる。「吹雪は三日で止むかもしれない」 村長が言った。「止まっても、道を掘り起こす時間が必要です」 リュシエナは窓の向こうへ目を向けた。枝が折れる鋭い音が、風に混じって聞こえる。「救援が到着する日を、食糧が尽きる日より早いと決めることはできません。最低でも十五日。可能なら二十日持たせます」「二十日だと?」 健康な男が声を上げた。「半分に減らせというのか。雪かきへ出る者まで食えなくなれば、道も開かんぞ」「全員を同じようには減らしません」 リュシエナは新しい紙を広げた。「年齢、体格、病状、身体を使う仕事によって必要量が違います。まず一人ずつ確認させてください」 銀嶺で備蓄を管理していた頃、配給表に記されるのは家名と人数だけだった。幼い子も、病で動けない者も、妊娠している女も、一つの口として同じ印をつけられた。足りなければ家の中で分けろと言われ、声の弱い者から椀が軽くなった。 それを繰り返してはならない。 集会所の壁際へ机を置き、村人を一世帯ずつ呼んだ。 名と年齢。狼へ変身できるか。熱や吐き気はあるか。妊娠している者、乳を与えている者、古傷や持病のある者。雪かき、屋根下ろし、見張り、狩猟へ出る予定。 リュシエナが尋ね、村の治療師が身体を確
第19話 黒森の村 少年の睫毛には、溶けない霜が張りついていた。 カルネアの外套へ包まれても、小さな身体の震えは止まらない。唇は青紫に変わり、胸は浅く速く上下している。雪の中を走り続けた裸足には、細かな裂傷が無数に刻まれていた。 リュシエナは橇から薬草箱を下ろし、少年のそばへ膝をついた。「名前を教えてくれる?」「……ニル」 掠れた声が、風に消えかける。「ニル、手を見せてください。痛いところへ触れる前に言います」 少年はカルネアの胸元へ顔を寄せたまま、指だけを差し出した。爪の間まで入り込んでいた黒い氷は、薬草を温めた布で包むと少しずつ水へ戻った。 黒い色は血でも毒でもない。森の煤が雪と混じったものだった。「村で何があった」 カルネアが声を落として尋ねる。「夜から、風が……道がなくなった。倉が潰れて、屋根が落ちた」 ニルは何度も息を継いだ。「みんな熱い。吐いて、指が痛いって。母さんが、黒狼になって助けを呼べって……でも途中で、足が」「エルダ村か」 少年が頷く。 エルダは、リュシエナが帳簿で不足を見つけた谷沿いの村だった。黒い針葉樹に囲まれ、冬には北風が谷底へ溜まる。王都からの道は一本しかなく、あの吹雪に塞がれれば孤立する。 カルネアが北の空を睨んだ。「斥候。村までの道を見ろ。崩落があれば戻って知らせろ」 二人の兵が狼へ姿を変える。黒い毛並みが雪を払い、たちまち木立の奥へ消えた。「視察は中止します」 リュシエナは橇へ積んだ薬草箱と保存食を見た。「この物資を救援へ回してください」「お前の権限は配分案の作成までだ」 カルネアの指摘に、リュシエナは銅印を握った。革紐越しに、角ばった形が掌へ触れる。「分かっています。ですから、部隊長であるあなたへ要請します。エルダ村を確認し、緊急配分が必要か判断してください」 カルネアの赤褐色の瞳が細くなる。 一瞬の沈黙のあと、彼女は頷いた。「要請を受ける。視察隊は救援隊へ変更。王都へ伝令を出せ。追加の食糧と治療師を求める」 命令が飛ぶと、兵たちが素早く動いた。 ニルには温めた蜂蜜水を少しずつ飲ませ、橇の中央へ寝かせる。カルネアが自分の外套を掛けたまま立ち上がったため、肩へ容赦なく雪が積もった。「寒くありませんか」「この程度で凍えるなら、北部隊の指揮は執れん」 短く答え、カルネ
評議室の長卓には、空いた椅子が一つだけあった。 誰かが用意したものではない。 リュシエナは扉の脇に重ねられていた予備の椅子を自分で運び、卓の末席へ置いた。脚が石床を擦る鈍い音に、先に集まっていた評議官たちの視線が一斉に向く。 窓の外は雲が低く、朝だというのに室内は薄暗い。獣脂の蝋燭が幾本も灯され、溶けた蝋と乾いた羊皮紙の匂いが漂っていた。 リュシエナは椅子へ座らず、その背へ手を添えた。 指先には、昨夜の墨がまだ薄く残っている。「発言をお許しください」 長卓の奥に立つヴァルゼインが、短く頷いた。「話せ」 彼は彼女を紹介しなかった。番であるとも、王が保護する客人であるとも告げない。何を求め、何を差し出せるかを、リュシエナ自身の言葉へ委ねていた。「冬季薬糧監査官として、三十日間働くことを申し出ます」 室内の空気が僅かに動いた。 衣擦れ。椅子の軋み。誰かが鼻から短く息を吐く音。 リュシエナは用意した一枚の文書を卓へ置いた。「閲覧を求めるのは、王都と北部村落の食糧、薪、薬草に関する備蓄記録です。各地の不足量を確認し、余剰のある倉庫から再配分する案を作成します。移送の決定権は求めません。軍の人数、配置、武器、兵糧庫に関わる記録にも触れません」「敵国の帳簿を扱った女へ、こちらの倉を開けろと?」 長卓の中ほどで、灰色の髭を蓄えた評議官バルガスが口を開いた。 地下の取調室で捕虜の獣魂を裂くべきだと主張した男だった。今日も細い目には冷たい疑念が浮かんでいる。「どの倉に何が足りないか分かれば、兵が何日動けるかも推測できる。軍事記録へ触れぬと言えば安心するとでも思ったか」「懸念はもっともです」 リュシエナは反論せず、文書の端へ指を置いた。「ですから、軍へ納める前の民生用備蓄に限ります。閲覧中は必ず黒曜の記録官を同席させ、写しの持ち出しもしません。三十日後、作成した資料はすべて返却します」「返したところで、頭の中へ残る」 別の評議官が低く言った。「それは否定できません」 誤魔化せば、かえって疑いが深くなる。「私は数字を覚えます。それを役立てるために、この職を求めています」「銀嶺へ知らせるためではないと、どう証明する」「証明できるのは、これからの行動だけです」 リュシエナの声は静かだった。「最初から信頼していただけるとは考えていま
乾ききらない墨が、紙の上で鈍く光っていた。 窓の外では細かな雪が降り続いている。白く霞んだ中庭の向こうで、見回りの兵が歩くたび、革靴の底が凍った石を擦る音がした。部屋には暖炉の火が入っていたが、机へ向かうリュシエナの指先は、いつまでも冷たかった。 父上へ。 そう書いたところで、筆が止まる。 なぜ、幼い私へ毒を飲ませることを許したのですか。 私の獣魂について、どこまで知っていたのですか。 門を閉ざしただけでなく、なぜ番兵に追わせたのですか。 胸の内には幾つもの問いがあった。地下の月祠で見つけた調合記録も、年齢ごとに増やされた月毒の量も、父の顔を思い浮かべれば鋭い欠片となって喉へ集まった。 けれど、筆先から落ちた言葉は違った。『このたびは、私のことで多大なご迷惑をおかけし、申し訳ありません』 そこまで書き、リュシエナは息を止めた。 違う。 謝りたいのではない。 知りたいのだ。なぜ自分の身体が壊され、なぜ命まで奪われかけたのか。父は知らなかったのか。それとも、知りながら毎朝の薬杯を見ていたのか。 紙を脇へ退け、新しい一枚を置く。 雪明かりを受けた紙面は、責めることさえ拒むように白かった。『突然の書状をお許しください。黒曜狼国の皆様へご迷惑をおかけしていることは、すべて私の至らなさが――』 まただ。 筆を置く音が、静かな部屋へ硬く響いた。 首元が締めつけられる。月環はもうない。包帯も薄くなり、傷は少しずつ塞がっている。それでも、息を深く吸おうとすると、銀の輪が残っているような錯覚がした。 二枚目も伏せる。 三枚目には、最初から問いを書こうと決めた。『父上は、私へ月毒が与えられていたことを――』 そこまで進んだ筆先が震え、黒い雫を落とした。滲んだ墨の縁が、ゆっくりと紙の繊維へ広がっていく。 父が知らなかったと答えたら、どうするのか。 ラヴィナ一人の仕業だったと告げられれば、まだ父を信じられるのか。 知っていたと答えたら。 役立たずのお前を家へ置くために必要だった。ミレシアを守るには仕方がなかった。お前一人が耐えれば丸く収まったのだ。 あの低い声でそう言われたなら、自分はまた謝るのではないか。 ご期待に沿えず、申し訳ありませんでした、と。 リュシエナの指が紙を掴んだ。乾かない墨が掌へ移る。三枚目の手紙は小さく潰れ、







